日本の音楽史を変えた先駆者、加藤和彦にフォーカスした
初めてのドキュメンタリー映画
まだネットもSNSもなかった時代。若者世代が支えていた深夜ラジオから、日本全国へ人気が広まったザ・フォーク・クルセダーズの一員。ピンク・フロイドやロキシー・ミュージックを手掛けた新進気鋭のプロデューサー、クリス・トーマスが自らプロデュースしたいと名乗り出て日本よりも先にイギリスで評価されたサディスティック・ミカ・バンドのリーダー。高橋幸宏、坂本龍一、細野晴臣らのYMOメンバーの参加を得て、加藤和彦作品の金字塔と呼ばれたヨーロッパ三部作に代表されるソロアーティスト。作曲家、プロデューサー、アレンジャーの幾つもの顔を持ち、手掛けたアーティスト、楽曲は数えきれない。いつの時代も必ず一歩先にいた音楽家、それ故に後年悩みも深かった加藤和彦の、輝かしい軌跡を追う世界初のドキュメンタリー映画がついに完成した。
同じものは作らないをモットーに
ジャンルも多岐に渡る、加藤和彦の功績に迫る
フォーク、ロック、ボサ・ノヴァ、トロピカル・サウンド、レゲエ、タンゴなど、時代時代に敏感に、誰よりも深く研究し取り入れていた加藤。その楽曲の幅広さ、意外性は一人の音楽家の手によるものとは気がつかないかもしれない。本作では、加藤の人生、生きた時代を捉えながら、加藤にどのような変化があったのかを、関係者らの証言や当時の貴重な映像で紐解いていく。どこか飄々と時代を先取りしていた天才的な音楽家、加藤和彦のことを深く知ってほしい。
胸に響く音楽とは……
歌い継がれていくことで時代を超えて愛される、名曲の数々
加藤和彦はその功績を知れば知るほど興味深い人物だった。今まで、もっと語られるべきでありながら、実はあまり語られていない。この映画は、高橋幸宏の加藤和彦に対する想いがきっかけとなり、『音響ハウス Melody-Go-Round』の相原裕美監督の呼びかけで映画の企画がスタート。本作では、彼の曲を愛する若い世代のアーティスト達がTeam Tonoban(加藤和彦トリビュートバンド)を結成、名曲「あの素晴しい愛をもう一度」を新たにレコーディング、その模様も描かれており、歌い継がれていくこと、語り継がれていくことの大事さをスクリーンに映し出している。
『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
CAST |
きたやまおさむ 松山猛 朝妻一郎 新田和長 つのだ☆ひろ 小原礼 今井裕 高中正義 クリス・トーマス 泉谷しげる 坂崎幸之助 重実博 コシノジュンコ 三國清三 門上武司 高野寛 高田漣 坂本美雨 石川紅奈(soraya) 他 |
ARCHIVE | 高橋幸宏 吉田拓郎 松任谷正隆 坂本龍一 他(順不同) |
企画・構成・監督・プロデュース | 相原裕美 |
制作 | COCOON |
配給・宣伝 | NAKACHIKA PICTURES |
協賛 | 一般社団法人MAM |
コピーライト | ⓒ2024「トノバン」製作委員会 |
公式サイト | https://tonoban-movie.jp/# |
2024年|日本|カラー|ビスタ|Digital|5.1ch|118分 |
5月31日(金)より大阪ステーションシティシネマ、
京都シネマ、T O H Oシネマズ西宮O Sほか全国公開
■加藤和彦(Kazuhiko Kato)
1947年3月21日生まれの音楽家。
生まれは京都だが、小学3年ころまで鎌倉、その後は高校3年まで東京・日本橋で過ごした。高校2年のころ、ラジオで聴いたボブ・ディランに興味を持ち、銀座のヤマハで輸入盤レコードを取り寄せ。何故か楽譜集も一緒に来たことをきっかけにギターを始める。高校卒業後は、仏師だった祖父の意向で京都の龍谷大学に入学。京都での生活が始まった後、男性ファッション誌「メンズクラブ」にフォーク・グループのメンバー募集を掲載し、広告を見て集まった仲間らとザ・フォーク・クルセダーズを結成する。1967年、アルバム「ハレンチ」を自主制作。ここに収められていた「帰って来たヨッパライ」がラジオで流れたことで注目を浴び、その後1967年12月25日にメジャーレコード会社からリリースされ、オリコン史上初のミリオンヒットを記録する。「帰って来たヨッパライ」は、当時ビートルズのアルバム「リボルバー」を聴き、その実験的なアプローチに衝撃を受けたことから生まれた楽曲である。そして、ザ・フォーク・クルセダーズは1年限定のプロデビューを果たす。セカンドシングルは同アルバムに収められていた「イムジン河」とすぐに決定したが、発売日直前に発売中止に。急遽作った「悲しくてやりきれない」をセカンドシングルとして1968年3月に発売。スマッシュヒットを記録する。1968年10月「フォークル・フェアウェル・コンサート」を行い、ザ・フォーク・クルセダーズは解散する。
ソロ活動では、1969年4月10日にファーストソロシングル「僕のおもちゃ箱」、その後さらに2枚のシングルを発表後、12月1日にソロアルバム「ぼくのそばにおいでよ」をリリース。当初2枚組アルバムでの発売を希望したが、レコード会社の意向により叶わず。アルバムジャケットに(レコード会社の許可を得て)抗議文を掲載した。1970年、学生時代から交際していた福井ミカと結婚。1971年4月きたやまおさむとの連名で「あの素晴しい愛をもう一度」をリリース。同曲は、後に中学校の教科書に掲載されるなど、今もなお歌い継がれる名曲として名高い。
1971年10月5日セカンドソロアルバム「スーパー・ガス」を発売。日本で初めてシンセサイザー(ミニムーグ、アープ2600)を使ったレコーディングであり、日本で初めてプロデュースクレジットを入れたアルバムでもある。同時期、海外と日本の音響システムの違いを感じ、日本のロックコンサートでも良い音を鳴らすために日本で初めて本格的なPA会社であるギンガムを設立した。ソロになってからはイギリスへ頻繁に遊びに行くようになっており、T・REX、デヴィッド・ボウイなどに触れ、アメリカンロックとは違うかっこよさを日本でも表現したくなり、妻のミカをボーカルに迎え、ロックバンドを結成。1972年6月2日、加藤和彦との「サイクリング・ブギ」をリリースする。1973年5月5日にアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を発売。当時は斬新すぎたのか日本ではあまり話題にならなかった。しかし、ロンドンのロックシーンで評価され、自らプロデュースしたいと名乗り出たクリス・トーマス*1をプロデューサーとして迎え、日本と外国の邂逅をテーマにセカンドアルバム「黒船」を制作。ジャケットに一切タイトルを載せないスタイルを希望したがレコード会社が難色を示し、日本で初めて帯付きのレコードとしてリリースした。1975年10月2日から24日までロキシー・ミュージックのオープニング・アクトとしてイギリス・ツアーに参加することになり、このツアーのために急遽アルバム「ホット・メニュー」を制作。ツアー時、オックスフォードのヴァージン・レコードのディスプレイがリチャード・ブランソンの手によりサディスティック・ミカ・バンド仕様にされた。イギリスから帰国後、ミカと離婚。サディスティック・ミカ・バンドも解散する。その後、作詞家の安井かずみと出会い、1976年に結婚。約1年休養のあと、ソロ活動を再開する。創作面でも二人は支えあい、アメリカ・アラバマ州のレコーディング・スタジオ、マッスル・ショールズでアルバム「それから先のことは」を制作し、1976年12月20日にリリース。続くアルバム「ガーディニア」は、坂本龍一、高橋幸宏、鈴木茂、後藤次利をセッションメンバーに迎え、ボサ・ノヴァに挑んでいる。
1979年「パパ・ヘミングウェイ」、1980年「うたかたのオペラ」、1981年「ベル・エキセントリック」を発表。この3枚のアルバムを総称して「ヨーロッパ三部作」と言われている。レコーディングには、すでにYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)として、多忙を極めていた高橋幸宏、坂本龍一、細野晴臣(細野晴臣は「パパ・ヘミングウェイ」以外に参加)、そしてYMOのサポートメンバーでもあった大村憲司、矢野顕子が参加している。
その後もソロアーティストとして、1983年「あの頃、マリー・ローランサン」、1984年「ヴェネツィア」、1987年「マルタの鷹」を発表。このころより、村上龍原作・監督『だいじょうぶマイ・フレンド』(83)や薬師丸ひろ子主演『探偵物語』(83)などの映画音楽を多く手掛け、市川猿之助主演・演出のスーパー歌舞伎では歌舞伎界初のフルオーケストラサウンドを入れるなど、新たな才能を開花させていく。1989年に桐島かれんをボーカリストに迎えてサディスティック・ミカ・バンドを再結成。アルバム「天晴(あっぱれ)」をリリース。
その後は、ザ・フォーク・クルセダーズの新結成。木村カエラをボーカリストに迎え、サディスティック・ミカ・バンドの再々結成、坂崎幸之助とのユニット和幸、小原礼、屋敷豪太、土屋正巳、ANZAによるVITAMIN-Q featuring ANZAとして活動した。
学生時代にコックをめざしていたこともあり、料理の知識と腕前はプロレベル。高橋幸宏、松山猛とともにファッションブランド「Bricks」をつくるなど、料理、ファッションにも造詣が深く、一流を愛した。トノバンは愛称。
2009年10月16日逝去。享年62歳。
*1 クリス・トーマス イギリス王立音楽院卒業後、ジョージ・マーティンのアシスタントとしてビートルズの通称「ホワイトアルバム」に関わる。その後、プロコル・ハルム、ロキシー・ミュージック、ピンク・フロイド、セックス・ピストルズ等をプロデュース。